作家紹介

作家紹介

芦国(あしくに)
上方絵の作家 文政3年 44歳で亡くなる。一派を成し門人には芦麿や芦幸等がいる
芦清(あしきよ)
芦国の門人 文化末に作品がある
芦郷(あしさと)
芦国の門人 文化文政に役者絵がある
芦尚(あしたか)
芦国の門人 文化文政に役者絵がある
芦貫(あしぬき)
芦国の門人 文化文政に役者絵がある
芦鷹(あしたか)
芦国の門人 文化文政に役者絵がある 芦丸ともいった
芦幸(あしゆき)
芦国の門人 長国といい文化11年に芦幸
芦雪となった(あしゆき)
芦国の門人 安政から慶応に作画した
綾岡(あやおか)
綾岡輝松とい言い明治期の作家
為一(いいつ)
北斎の画名 文政3年から天保5年まで使用した
幾勝(いくかつ)
芳幾の門人 明治期に作画
幾年(いくとし)
芳幾の門人 女流作家 安政から慶応に作画
幾英( いくひで)
芳幾の門人、明治期の作家
幾丸(いくまる)
芳幾の門人 幕末から明治にかけての作画
為斎(いさい)
北斎の門人 文政4年生まれ 明治13年没
石渡江逸(いしわたこういつ)
明治30年生まれ、昭和62年没。国芳門下の井草仙真に弟子入り、風景画の新版画を描く
一豊(いちとよ)
芳艶の門人 文久から明治にかけて作画
一景(いっけい)
四条派の画家で明治時代の作家 風景画を得意とする
広重三代に似ているが明治初期の滑稽味のある風景が多い
一笑(いっしょう)
宮川長春の門人 肉筆を多く残している
一蝶(いっちょう)
英一蝶 はなぶさいっちょうといい菱川師宣風の肉筆を残している
伊藤深水(いとうしんすい)
明治31年生まれ、昭和47年没。年方門下、中山秋湖に学ぶ
鏑木清方に入門。日本画家として活動。多数の木版画を残す
伊藤孝之(いとうたかし)
明治27年生まれ、昭和57年没。京都高等工芸学校入学
油彩を都鳥英喜に学び、日本画を竹内栖鳳に師事。新版画を残す
伊八(いはち)
上方絵の作家 京都に住む
歌政(うたまさ)
牧墨僊のこと
歌麿(うたまろ)
喜多川歌麿 宝暦3年生まれ文化3年没
美人画をよしとして一時代を築いた作家であり
美人画なら歌麿と言われるほどの人気作家である
鳥山石燕の門に入り豊章と名乗った時代がある
蔦屋重三郎に見いだされ、大首絵を出し人気を掴み、多数の版元から作画され人気がうかがえる
歌麿二代(うたまろにだい)
恋川春町二代といわれている。歌麿没後二代を襲名した
英一(えいいち)
英泉の門人。文政元年生まれ、嘉永元年没 人物花鳥画がある
栄烏(えいう)
栄之の門人。寛政期に大首を描いている
英山(えいざん)
天明7年生まれ、文久3年没 狩野派の一人である
菊川英二を父に持ち,鈴木南嶺に師事し北渓と幼友達である
歌麿風の可愛い美人画を描き活躍した。弟子に英泉がいて菊川派の祖といわれている
英子(えいし)
英山の弟子で女流作家である。天保期に作品がある
栄之(えいし)
宝暦6年生まれ、文政12年没
歌麿、清長、と共に黄金期の美人画を支えた
幕府の勘定奉行細田弾正時行の長子で家督を継ぐが、狩野典信を師事、家督を嫡子に譲り浮世絵に専念する
清信の弟子の鳥居文竜斎の門に入り、狩野派を破門される
すらりとした上品な美人を描き人気を博した
版画だけでなく、肉筆の作画も多い
栄昌(えいしょう)
栄之の門人、大首絵や柱絵等門人中一番多く錦絵を残した名手。寛政期が作画期
栄深(えいしん)
栄之の門人、大首絵や柱絵がある
栄水(えいすい)
栄之の門人、大首絵を残している。栄昌、栄里に次ぐ名手である
英泉(えいせん)
武家の子として幼年から狩野白桂斎の門人、北亭と名乗り浮世絵を描く
仕官していたが流浪の身になり菊川英二の家に寄寓していた
性質は奔放、戯作者となり狂言作者になり根津で娼家を営んだ
娼婦を多く取材して好んで描いて人気を博した
嘉永元年58才で亡くなる
永洗(えいせん)
富岡永洗という。元治元年生まれ、明治38年没。小林永濯に師事
美人画、風俗画、武者絵を得意とした挿絵がある
永濯(えいたく)
天保14年生まれ、明治23年没 幕末から明治にかけて活躍した
狩野永悳の門
栄里(えいり)
栄之の門人、栄昌と双璧をなす。後に礫川亭永理となる
絵金(えきん)
四国の土佐にいた浮世絵師。狩野春信の門人、晩年友竹斎雀翁と言った
通称金蔵といい絵師の金蔵を略して絵金といった
艶鏡(えんきょう)
写楽の影響を受け7点の大首絵を残している。作画は寛政8年のみ
応挙(おうきょ)
円山派の祖で浮世絵師ではないが眼鏡絵を描いている
遠近法を用い写生描写を得意とした

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岳亭(がくてい)
五岳とも言う。文政から天保まで作画 北渓の門人
梶田半古(かじたはんこ)
明治3年生まれ、大正6年没。挿絵口絵画家
笠松紫浪(かさまつしろう)
明治31年生まれ、平成3年没。鏑木清方に学び紫陽花舎の紫をもらう
風景、茶道、生花などを描く新版画の作家
勝重(かつしげ)
岩佐又兵衛の子
勝信(かつのぶ)
漆絵があり享保の頃に肉筆画がある
鏑木清方(かぶらぎきよかた)
明治11年生まれ、昭和47年没。日本画家として近代日本を代表する作家
東京日々新聞などの創立者。是真の次男に手ほどきを受け、水野年方の門に入る
美人画を良しとし、挿絵画家として人気を博した。日本画において帝国美術院受賞
後に文化勲章も受ける。又深水、巴水、紫浪等の弟子を育てた
暁斎(ぎょうさい)
天保2年生まれ、明治22年没
本名は河鍋周三郎といい、7歳の時に国芳の門に入り、11歳の時狩野派の前村洞和の門に入った
洞和が亡くなった後狩野洞白を師事。19歳の若さで洞郁陳之の画号をもらう
狩野派絵師として生きることは難しかったことから、「狂斎」等の画号で浮世絵、戯画、行灯絵などを描いて生活の糧としたといわれる。北斎の再来を思わせるほどの手練れで肉筆も多く残している
明治3年にお上を風刺する絵を描き投獄され翌年放免されてから暁斎に改めた
暁翠(ぎょうすい)
暁斎の娘で、美人画を得意とし女子美術学校教授になり昭和10年に亡くなる
暁亭(ぎょうてい)
河鍋暁斎の門人、明治7年生まれ、昭和9年没。10歳で暁斎に入門、内弟子となり
河鍋家に寝泊りしていた。多くの肉筆を残す
玉英(ぎょくえい)
周延の門人、明治期に作品がある 最初は延春を名のった
清貞(きよさだ)
国芳に師事するが、没後鳥居派、清満二代の門に入る
清重(きよしげ)
清信の門人、享保から宝暦に役者絵を描く
巨川(きょせん)
春信と同じ頃の明和頃の画家
清忠(きよただ)
清忠を名乗る絵師は5人いる
1,清信の門人享保から寛延時代に漆絵や大版の浮き絵を残す
2,清長の門人。
3,清満二代の門人で清忠の子文化14年生まれ明治8年没
4,明治8年生まれ清貞の長男、土佐派の門に入り鳥居派も修め鳥居家7代目を継いだ
5,清忠の子で父と鏑木清方に学び、父亡き後言人、清言を経て清忠を継ぐ
清親(きよちか)
弘化4年御蔵方組頭小林茂兵衛の末っ子として生まれた
文久2年家督を継いで清親となった
横浜で写真術を習い英国人ワーグマンについて洋画を学んだ。
柴田是真、河鍋暁斎などに日本画を習い、そこに写真の技術を組み入れ光線画というものを作り出した
銅版画や、石版画が流行りだしたので木版画で作り上げて人気を博した
清経(きよつね)
清満の門下、宝暦から安永に紅摺絵がある
清長(きよなが)
幼少の頃に鳥居清満に入門し、鳥居派の真骨頂である役者絵の看板番附であるが
清長は写実主義の流行に乗り美人画に力を発揮した
栄之、歌麿と浮世絵の黄金期の人気美人画家として大活躍した
天明5年に清満が亡くなり鳥居家の高弟である清長に依頼が来ることになった。
鳥居派を継ぐつもりがなかったので、豊春に代役を頼んだ。
しかし豊春が失敗したため、再び清長におはちが回ってきた。
清満の娘婿に子が生まれたので、その子が成人になるまで鳥居派を継ぐこととした。
清満の孫が清峯となりいっぱしの仕事ができるようになると
自分の実子の清政に筆を折らせて絵師になることをやめさせた
清信(きよのぶ)
寛文4年生まれ、父清元と共に鳥居派を作り上げた人気作家。
看板番附は今でも鳥居派の作家が描いている
清広(きよひろ)
清満の門人。宝暦期の紅摺絵が有り、役者絵より美人画が多い
清政(きよまさ)
清長の子、父について絵を学び10歳の頃から才能がみられる
寛政7年に鳥居清見の孫が鳥居派を継ぐにあたり鳥居に野心がないことを示すため
清長により画家の路をたたれた
清倍(きよます)
清信の子で鳥居2代目を継ぐ
清満(きよみつ)
清倍二代の次男、鳥居3代を継ぐ。後に清長が4代を継ぎ、孫の清峯が5代を継ぐ
清峯(きよみね)
清満二代の前名、清満の孫
吟光(ぎんこう)
明治の作家、安達吟光という。東京名所、古今名女図会、西南戦争などの作画がある
国明(くにあき)
豊国三代の門人、幕末の画家、横浜絵で外人を描いたものがある
国明二代(くにあきにだい)
国明の弟、豊国三代の門人、役者絵や相撲絵がある
国員(くにかず)
豊国三代の門人、嘉永から幕末に役者などを残す。大阪の絵師
国貞(くにさだ)
豊国三代の前名、天明6年生まれ、元治元年没
豊国門下中の逸材で人気も当世一であった
役者、美人、相撲などオールマイティに活躍、精力的に作品を作る
豊国の没後天保15年豊重が二代を継いだにもかかわらず二代と称したが
現代は三代に分類されている
国貞二代(くにさだにだい)
豊国四代の前名
国郷(くにさと)
豊国三代の門人、本所の立川の菓子屋の子、安政5年没
国周(くにちか)
天保6年生まれ、明治33年没、豊原周信の弟子となり押絵を描いていた
後に豊国三代の門に入り才能を開花させる
役者の大首を得意とし三枚続に半身を描く新機軸で人気を博した
国綱(くにつな)
豊国初代の門人
国輝(くにてる)
弘化から安政4年頃に作画
国貞の門人、貞重を名乗っていたが国貞が豊国を継いだ時国輝に改名
国輝二代(くにてるにだい)
豊国三代の門人、国綱二代を名乗り慶応元年国輝となった。明治の開花絵がある
明治7年没
国輝三代(くにてるさんだい)
豊国三代の門人、後に国周を師事。二代目の没後国輝を継ぐ
国利(くにとし)
豊国三代の門人、弘化4年生まれ、明治32年没
国虎(くにとら)
豊国初代の門人、西洋風の風景画の浮絵を残す
豊国に認められるほどの技術がある
国長(くになが)
豊国初代の門人、文化3年ごろから役者や美人を残している
国直(くになお)
豊国初代の門人、国安、国丸、と共に三羽烏といわれた
国久(くにひさ)
豊国初代の門人、享和から文化に美人画を残す
一説には女流作家といわれその中で手練れといわれる
国政(くにまさ)
豊国初代の門人、逸材と言われ役者大首絵では豊国をしのぐほどの手練
れ文化7年に38歳で亡くなるが生きていれば歌川を背負っていたかもしれない
国満(くにみつ)
豊国初代の門人、作品は多くは無いが初期の歌川派の絵師
国安(くにやす)
豊国初代の門人で高弟の一人、美人を得意とした手練れ、天保3年39歳で亡くなる
国芳(くによし)
豊国初代の門人、寛政9年生まれで文久元年65歳で亡くなる
幼少期より画を好み豊国に文化8年に認められ門下になる
文政10年に通俗水滸伝シリーズを出し人気を得た。
武者絵を得意とし、戯画や美人画、風景画などオールマイティに才能を発揮。
国貞、広重と幕末の歌川派を支え、弟子にも恵まれ芳年、水野年方、鏑木清方、伊藤深水と近代まで画系が続く
桂舟(けいしゅう)
文久元年生まれ、昭和17年没。狩野派を学び、芳年に学び、挿絵を残す
月耕(げっこう)
尾形月耕と言い安政6年生まれ大正9年没b
師匠は無く独学で美人画や日清戦争などを描いた
光逸(こういつ)
清親の門人、土屋光逸と言いb明治3年生まれ、日清戦争の絵を残している,
新版画の作家として人気がある
江漢(こうかん)
司馬江漢と言い、銅版画家として有名。
春信名で作品があるが、後に春重として浮世絵を残す。
江漢名で銅版画を創製
耕漁(こうぎょ)
月耕の門人、能楽の絵を多く残した。明治2年生まれ、昭和2年没
小国政(こくにまさ)
国貞三代の子、日清戦争の絵を残している
古邨(こそん)
祥邨(しょうそん)の前名
言人(ことんど)
鳥居言人という。明治33年生まれ、昭和51年没。
鳥井清忠の長男。鏑木清方に師事美人画を描く。
小早川清(こばやかわきよし)
明治32年生まれ、昭和23年没。鏑木清方に入門 新版画の作家
古龍斎(こりゅうさい)
明和から天明にかけて作画。磯田古龍斎と称し、春信と同時代に活躍した
美人画を得意とし、肉筆も数多く残している。あぶな絵や春画も人気を博した

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斉藤清(さいとうきよし)
明治40年生まれ、平成9年没。 創作版画作家
貞景(さだかげ)
国貞の門人、文政から天保に作品がある
貞景二代(さだかげにだい)
国貞の門人、嘉永から明治にかけて作品がある
貞虎(さだとら)
国貞の門人、国貞の弟子の中は筆が立った
貞信(さだのぶ)
国貞の門人、文化6年生まれ、明治12年没。上方絵の絵師
貞秀(さだひで)
国貞の門人、、国貞の弟子の中で大成して大活躍した数少ない作家。
慶応2年のパリ万博に出品された。横浜絵や6枚続や9枚續続などの俯瞰図など
独自の世界を作り出した
貞広(さだひろ)
国貞の門人、上方絵の絵師
貞房(さだふさ)
国貞の門人、上方絵の絵師
式麿(しきまろ)
月麿の門人、歌麿風より菊川風の美人画を残す
重長(しげなが)
西村重長という。享保から宝暦にかけ、漆絵や紅摺絵を残す
弟子に豊信や春信がいる
重信(しげのぶ)
柳川重信は北斎の門人で、養子になり長女と結婚した
重政(しげまさ)
黄金期の絵師の一人、北尾重政といい歌麿や北斎も一時師事した
山東京伝、鍬形惠斎、久保俊満なども彼の弟子である
写楽(しゃらく)
浮世絵を代表する絵師の一人
寛政6年から7年にかけて蔦屋重三郎のもとで141枚の絵を残している
わずか10か月で制作して浮世絵界から消えた
写楽が誰なのかいろいろな説があるが、未だに謎である
役者の大首が評価され、世界的に六代肖像画家の一人ともいわれている
舟調(しゅうちょう)
玉川舟調という、文調の門人。美人画を良しとする
春英(しゅんえい)
春章の門人、宝暦12年生まれ、文政2年没、役者と相撲絵を得意とした
勝川派の高弟の一人
春好(しゅんこう)
春章の門人、寛保3年生まれ、文化9年没、春章に次ぐ名手であったが
天明7年ごろ痛風になり左手で書くようになる
役者の大首絵に名作があり、美人や相撲も得意とした
春山しゅんざん(しゅんざん)
春章の門人、美人画を良しとした
春章(しゅんしょう)
宮川春水の門人、画風はどちらかといえば清長風の美人画を得意とした
春亭(しゅんてい)
春英の門人、明和7年生まれ、文政3年没
美人、役者、風景、武者絵など多彩な作家
春汀(しゅんてい)
明治期の作家、美人や風俗画や挿絵などがある
俊満(しゅんまん)
重政の門に入る、窪俊満と称している。宝暦7年生まれ、文政3年没
春朗(しゅんろう)
北斎の前名。安政8年から寛政6年まで使う
春和(しゅんわ)
春英の門人、相撲、役者、美人画がある
勝月(しょうげつ)
明治の作家、風俗画や日清戦争の絵を残している
松好斎(しょうこうさい)
流光斎の門人、大阪の画家で上方絵の中で優れた作家
祥邨(しょうそん)
鈴木華邨の門人、花鳥画を多く残す。明治10年生まれ
前名古邨で活躍し大正元年に祥邨に改名
嵩岳堂(すうがくどう)
田崎草雲の門人、花鳥画がある
祐信(すけのぶ)
西川祐信は初期関西浮世絵画壇を代表する肉筆画の大家
石燕(せきえん)
鳥山石燕といい、正徳4年生まれ、天明8年没。浮世絵師とはいいにくいが
門人に歌麿、長喜、春町など輩出
是真(ぜしん)
柴田是真とい言い、四条派系の絵師。浮世絵師とは言えないが国芳が一時師事した
摺り物や漆絵など、多くの版画を作った
雪鼎(せってい)
上方浮世絵師にあって、祐信と共に双璧をなす名手

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戴斗(たいと)
北斎が文化8年から文政3年まで使った名
高橋弘明(たかはしひろあき)
明治4年生まれ、高橋弘明と言い、明治の新版画家
明治40年頃松亭、大正10年頃弘明と改めた
竹久夢二(たけひさゆめじ)
明治19年生まれ、昭和9年没。大正ロマンを描いた人気版画家
周延(ちかのぶ)
天保9年生まれ、明治45年没。国芳や豊国三代を師事
後に国周の門人に、芳鶴二代を名乗る時期がある
国周の弟子では一番活躍した。美人風俗画を得意とした
周麿(ちかまろ)
暁斎の幼名、国周の門人
長喜(ちょうき)
寛政期の絵師で清長風の美人を描き活躍した。鳥山石燕の門人
子興と名乗り天明の末に長喜となり、寛政8年頃子興に復し享和元年に再び長喜を名乗る
長春(ちょうしゅん)
宮川長春といい、土佐派、狩野派を習い初期の浮世絵肉筆で活躍
月麿(つきまろ)
歌麿の門人
幼名は菊麿といい、享和2年から喜久麿と改名、文化元年から月麿とした
常正(つねまさ)
延宝5年生まれ、寛保元年没。
川又常正と言い、宝永から寛保にかけて肉筆美人画を残す。
輝方(てるかた)
明治16年生まれ、大正10年没。
年方の内弟子になり、鏑木清方、鰭崎英朋と烏合会に参加
美人画、風俗画を得意とした挿絵画家
天童広重(てんどうひろしげ)
広重の肉筆の中に天童物というものがある
童藩の財政がひっ迫し領内の百姓や町人に御用金を集め、その謝礼として広重の肉筆を出した。
俗にその手の作品を天童広重といった
年章(としあき)
芳年の門人 明治時代の武者絵がある
年方(としかた)
水野年方と称し芳年の門人。慶応2年生まれ、明治41年没。
芳年に浮世絵を習うとともに省亭などにも学び、浮世絵風の絵画のほかに明治新風俗画を構築した
ほかに新聞挿絵や戦争画も残している。弟子には鏑木清方などがいる
利信(としのぶ)
奥村利信と言い、政信の高弟。享保中ごろから寛延頃まで作画
年信(としのぶ)
芳年門下、安政4年生まれ、明治19年没
年信二代(としのぶにだい)
芳年門下、明治36年没
年英(としひで)
芳年門下、文久2年生まれ、大正14年没
明治中期から新聞挿絵や錦絵を残している
年昌(としあき)
芳年の門人、貧乏で師をとることができず芳年の車夫として住み込んだ
明治23年芳年のもとを辞して豊国三代の門人の国玉の養子となる
年光(としみつ)
芳年の門人、西南戦争や風俗画を残す 年峰ともいう
年基(としもと)
芳年の門人、清親を真似た絵がある
豊章(とよあき)
歌麿の初名
豊清(とよきよ)
豊広の子、寛政11年生まれ、豊春から名をもらう。豊国の門人
豊国(とよくに)
豊春の門人、明和6年生まれ、文政8年没
文化頃から浮世絵の終焉まで浮世絵界を席巻していた歌川派の創始者
役者、美人を得意とした。何を描いても一流で秀作も多く大変人気を博した
豊国二代(とよくににだい)
享和2年生まれ、天保6年没。豊国の養子の豊重が文政8年に名乗る
豊国三代(とよくにさんだい)
天明6年生まれ、元治元年没
豊国門下中の逸材で人気も当世一であった
国貞といい、役者、美人、相撲などオールマイティに活躍、精力的に作品を作る
豊国の没後天保15年豊重が二代を継いだにもかかわらず二代と称したが
現代は三代に分類されている
豊国四代(とよくによんだい)
豊国三代の娘婿で、国政三代から国貞二代のなり、豊国を継ぐ
豊信(とよのぶ)
石川豊信といい正徳元年生まれ、天明5年没。西村重信を改めて石川豊信となった
豊宣(とよのぶ)
安政6年生まれ、明治19年没
国久二代の亭主で豊国三代の孫。武者絵、役者絵がある
豊春(とよはる)
歌川派の祖。浮世絵に浮き絵を作り、多くの風景画を残す
弟子に豊国と、豊広がいる
豊広(とよひろ)
豊春の門人、豊国と共に二代巨頭である。美人と風景画を得意とした
弟子に広重がいる

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長秀(ながひで)
京都の画家、上方絵の絵師、合羽摺りや錦絵で美人や役者を残した
名取春仙(なとりしゅんせん)
明治19年生まれ、昭和35年没。司馬画塾に入門、久保田米僊に学ぶ
山村耕花と共に珊瑚会を結成。役者の新版画を残す
延一(のぶかず)
周延の門人。日清戦争を描いた
橋口五葉(はしぐちごよう)
新版画の作家。明治13年生まれ、大正10年没
明治38年に東京美術学校の洋画科卒、大正4年以降に作られた木版画は人気を博した
巴水(はすい)
川瀬巴水と言い、明治16年生まれ、昭和32年没
川端玉章門下、青柳墨川に学び、荒木寛友に日本画を学ぶ
岡田三郎助を学び、念願の鏑木清方に入門した
渡邊木版より大量の新版画を残し人気を博した
林忠正(はやしただまさ)
浮世絵を世界的に知られるために紹介した功績がある。また海外に売り渡した
春重(はるしげ)
司馬江漢の前名、明和末から安永半ばまで名乗った
春信(はるのぶ)
享保10年生まれ、明和7年没。鈴木春信といい、浮世絵の多色摺りを創作した絵師。
中判の美人画を多く残す。錦絵といわれ人気を博す
秀麿(ひでまろ)
歌麿の門人、歌麿の晩年の作に似た美人画が多いん
広景(ひろかげ)
広重の門人、安政から慶応にかけて作品がある
広重(ひろしげ)
寛政9年生まれ、安政5年没。豊広の門人、幕末の歌川派の三羽烏の一人
定火消同心の長男として生まれ、文化6年父の跡を継ぎ相続した。
絵を豊国に学ぼうとしたが、人数が多いので断られ豊広の門に入る。
ここで北斎と共に風景画の二大巨頭でが生まれることとなった。
文化9年広重名を許され、天保2年東都名所を発表
天保3年に家督を譲り本格制作に入り、天保4年東海道五十三次が当たり人気を不動のものにした。
広重二代(ひろしげにだい)
広重の門人、重宣といったが広重の娘と結婚、二代となる
慶応元年離縁され立祥と名乗る。絵は初代に劣らず筆は立つ
広重三代(ひろしげさんだい)
広重の門人、重政と言ったが、広重二代と別れた広重の娘と結婚して三代を継いだ
明治期の開花絵を残す
房種(ふさたね)
貞房の門人。安政から明治にかけて美人と風景画、役者、戦争絵がある
文調(ぶんちょう)
明和から安永初期まで制作。役者、美人を得意とした
米作(べいさく)
清親の門人。風景画、ポンチ絵、日清戦争を残している
抱一(ほういつ)
酒井抱一といい、画家であり、俳人であった
狩野派や豊春や光琳に学び肉筆を残している
豊斎(ほうさい)
芳景、国貞三代のこと
北英(ほくえい)
上方の絵師、北洲の門下
北斎(ほくさい)
宝暦10年生まれ、嘉永2年没。世界的に有名な浮世絵師
春章の門に入る、勝川春朗の名をもらう。狩野派を学び破門された
絵に関して貪欲で漢画、土佐派、光琳派も学び、90歳まで精進した
また奇行が多く30回以上改名し、93回転居している
版本の挿絵や、役者、美人画、春画、肉筆など大量の絵を残しているが、錦絵は思ったほど残してない。
北寿(ほくじゅ)
宝暦13年生まれ、文政7年没
北斎門人、浮き絵風の風景画を描いていたが文化のころ和西洋風の画風になった
北洲(ほくしゅう)
上方絵の絵師、松好斎の門人。北斎風の役者を描いた
北馬(ほくば)
北斎の門人、肉筆を良しとした。北斎に次ぐ筆が立つ
北溪(ほっけい)
北斎の門人、狩野派を習い、後に北斎に師事した

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政信(まさのぶ)
貞享3年生まれ、明和元年没。奥村政信と言い初期浮世絵の画家
政演(まさのぶ)
重政の門人、北尾政演といい、山東京伝といって文人でもある
政美(まさよし)
重政の門人、俊満、政演と共に三羽烏といわれた
孟斉(もうさい)
芳虎の門人 重虎といった。明治に入ってから孟斉と名乗る
師宣(もろのぶ)
菱川師宣といい、菱川派の祖
又浮世絵版画の祖ともいわれている見返り美人を描いた絵師としても有名
安治(やすじ)
井上安治といい、元治元年生まれ、明治22年没
最初は芳年門に入るが、清親の絵の新しさに惚れ清親門に移る
清親風の光線画を描き人気を博したが、後年は探景と名乗り浮世絵風の絵を残す
山本昇雲(やまもとしょううん)
明治3年生まれ、昭和40年没
柳本洞素、河田小龍、滝和亭に入門風俗画報投稿、東陽堂絵画部員として活躍表紙、挿絵を描く
芳幾(よしいく)
天保4年生まれ、明治37年没、国芳の門人、芳年と人気を分ける手練れ
美人画、武者絵、残酷絵、写実風洋風画、錦絵新聞等多彩であった
芳形(よしかた)
国芳の門人、武者絵を得意とした。元治元年に24歳で亡くなる
芳員(よしかず)
国芳の門人、武者絵、横浜絵を得意とし。
よし国(よしくに)
上方絵の作家、芳洲とも言った
芳国(よしくに)
野村芳国と言い芳梅の門人 風景画を残す
芳女(よしじょ)
国芳の次女
吉田博(よしだひろし)
明治9年生まれ、昭和25年没。西洋画の絵師で、新版画を残す
巴水と共に新版画界の2代巨頭である
芳瀧(よしたき)
芳梅の門人。上方絵の絵師
芳玉(よしたま)
国芳の門人、女流画家。是真に習い美人画を残す
芳綱(よしつな)
国芳の門人、武者絵を残す
芳艶(よしつや)
国芳の門人、文政5年生まれ、慶応2年没。武者絵を得意とした
一度国芳に破門にされたが、まもなく復帰を許された
芳年(よしとし)
天保10年生まれ、明治25年没。12歳で国芳の門に入り、武者絵、役者絵を描いていた。残酷な血みどろ絵で芳幾と共に人気を得た。明治に入り精神衰弱を患うが、彼の異常さがうかがえる。それ以降大蘇芳年と号を改めた。次々ヒットを飛ばし明治浮世絵界の第一人者となる。弟子も多く80人を超えたと言われている。晩年精神異常をきたし最後は発狂してしまった
芳虎(よしとら)
国芳の門人、武者絵、役者絵、横浜絵を得意とし、明治以降は風俗画を描いている
国芳の没後13回忌の際、故あって同門から出ることになる
孟斉と名乗るようになった
芳春(よしはる)
国芳の門人、初名は芳晴といった。柳川重信に学び後に国芳に入門した
美人画、おもちゃ絵、武者絵を残す
芳藤(よしふじ)
国芳の門人、文政11年生まれ、明治20年没
武者絵、組上絵、等子供のおもちゃ絵を多く描き、おもちゃ芳藤と呼ばれた

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流光斎(りゅうこうさい)
上方絵の絵師、雪鼎亡き後上方絵の第一人者で後の上方絵に多大な影響を与えている
柳谷(りゅうこく)
享和から文化にかけて歌麿風の美人画を残す
柳村(りゅうそん)
小倉柳村と言い、清親や安治と共に新しい風景版画を創作した作家である
明治13~14年頃に制作された11図が知られている、作品は非常に少ない
明暗を強調して効果的に使い独自の工夫がみられる

若井おやぢ(わかいおやじ)
日本の工芸品を海外に輸出する事業とした起立工商社の副社長であった
若井兼三郎が自ら扱った作品に小型の印で若井おやぢの印を押した

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